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2009年1月17日 (土)

阪神・淡路大震災の記憶

Sinsai

朝、車での出勤途中、今日はやけに歩道を歩く人が多いな、と思って車を走らせていました。東に進むほどにその数が多くなり、東灘区の御影辺りまで来ると長く繋がって行列となっていました。

そういえば、今日は忘れてはならない日でした。対面からは見えなかったのですが歩く人の多くが背負ったリュックに「ひょうごメモリアルウオーク2009」のフラグを付けていました。

地味な服装でリュックを背負って寡黙に歩く行列は震災直後の記憶を鮮烈に思い起こさせます。誰もが多かれ少なかれ財産と知人を一瞬にして失い、心に傷を負った日でした。

阪神・淡路大震災。あれからもう14年が経過したのですね。
神戸から淡路に引っ越した直後に、震源の淡路島であの日を迎えた僕は、幸いにして新築の家でしたので、壁が剥がれ落ちる程度の被害で済みました。

震災の3、4日後に知人や親戚の安否を尋ねて神戸をバイクで走り回った時のことを思い出します。長田地区は火災でひどい被害でしたが、この東灘周辺は更に悲惨な有り様でした。

神戸中心街のビル倒壊や幹線道路の陥没、阪神高速の横倒しなどは現実を遥か越えてしまって感覚が麻痺し、心の痛みはそれほどでもなかったのですが、東灘から芦屋にかけての2号線沿いは、押しつぶされて国道にはみ出してしまった民家の多くを目の当たりにして、大変なことが起こったのだと実感し、心が痛みました。

悲劇的、刺激的な被写体に溢れていましたので、淡路や神戸の街に報道関係者やカメラマンがどっと押し寄せました。僕はといえば、なぜかカメラを向ける興味も気力も湧きませんでした。

被災した当事者側の視点として記録に残しておくのは大切なことだと承知していましたが、当時はカメラを持ち出す気になりませんでした。今、正直に言うと少し後悔していますが、その時は説明の付かない無力感で震災に関する写真は皆無です。

その分、仕事にもならなかったことも有り。奉仕活動に奔りました。個人主義で利己主義な僕が、自分でも意外な程でした。孤独死が問題になった仮設住宅から震災復興住宅に移る手助けをする引っ越しボランティアでは、助けたり助けられたりで沢山のお年寄りの方達と出会いパワーを貰いました。

不謹慎では有りますが、14年経った今では変に懐かしく忘れられない日々となっています。

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